昨日、AbemaTVで初代ガンダム40〜43話を見ました。もう40年近く前のアニメながらも、最終的な視聴者数は284K(約28万)になってましたね。やはりすごい人気です。
永遠のララァ
ご存知の方も多いと思いますが初代ガンダムは打ち切り番組で、当初の予定よりも早く番組が終わってしまったという作品です。ですが改めて最終話を見直して見ると、そのわりには上手くまとめられているなというか…やはり当時の富野監督の心中からすれば悔しさでいっぱいだったのかもしれませんが、むしろ駆け足にならざるを得なかったからこそでしょうか、テンポが良くて気持ちよく見れた感じです。ラストシーンでアムロがホワイトベースのクルーたちと無事合流するという、希望のある終わり方も美しいですしね(でも結局その後アムロはララァの呪縛にとらわれてしまいますが…)。
それはそれとしてこの終盤4話でのある意味最大の見所は、先ほども名前を出しましたララァとアムロの戦いでしょう。今回見直して思ったのは一見してオカルト感が強すぎて、普通の視聴者は意味がよく分からないだろうなぁと、富野ファンである僕ですら感じてしまいましたwやっぱりアムロとララァに見るニュータイプ同士の戦い、あの演出を理解するには小説版のガンダムを読む必要があるな、と…。
実のところ僕は富野監督の書いた小説版のガンダムはすごく好きで、これを読んでアニメのガンダムがより好きになったという経緯があります。
思惟
アニメではアムロが戦いの中で敵の殺気を感じ取って攻撃をしたり、あるいは意識の共鳴といった反応の中で会話をしたりといった演出が見られますが、ガンダムの小説版では「思惟を感じた」「思惟の呼びかけ」「思惟が交わされる」「思惟の流れ」といった表現で書き綴られています。思惟、つまり簡単に言えば思考ということですが、アムロとララァの戦いではララァの思惟がアムロを襲ったさい、「アムロの知覚が翔んだ」とあります。単純に「気を感じ取る」というのとは違うんですよね。
こうした表現はシャリア・ブルとの戦いなどでも同じで、シャリア・ブルの放射する「思惟の流れ」がアムロに流れ込み、それを認識することでアムロは闘争心を知覚するともあります。
実のところ小説版ではシャリア・ブルはアムロを同士として迎え入れようと試みるのですが、シャリア・ブルがいくらそう思惟を放射しても、一瞬の判断が命取りとなる戦場ではシャリアの思惟を反芻する余裕などないアムロは、一方的に流れ込んでくる思惟を強迫的と知覚し、シャリアを討ってしまいます。
こうした「思惟が流れ込む」といった富野流の表現?が、アニメではララァを討ってしまったときのアムロ…頭の中に海水が流れ込んで渦巻き、ザッパーン!となるシーンなのかなと…。小説での表現を知った上でアニメを見直すと、アムロとララァの会話がより神秘的に感じられるというか、それはオカルティックという意味ではなく若干ロマンチックな方向性で感じられて美しい画に見えるんです(僕には)。
僕はガンダム論とかニュータイプ論を語るつもりはありませんが、初代ガンダムを語る上においてはアニメと小説、どちらも読んでおく必要はあるんじゃないかと思います。ニュータイプ同士が戦ったときの不思議演出の理解も深まるというか、小説を読んだあとだとまた違った味わいを感じられるようになるのではないかと思います。近頃は小説版も電子書籍化されて手に入れやすいようですし、興味がわいたらぜひって感じですね。
ちなみに初代ガンダムはアニメ版と小説版とで内容が大きく異なるので、そういう意味でもお勧めですよ!
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